シンプルにする
今日も一章分、英語の学習をした。
本当は今日、あまり勉強をする気にならず、明日に回そうかとも考えたが、英語は毎日少しずつ積み重ねていかないと出来なくなる科目だと思い直し、何とか気力を振り絞り、テキストを開いた。
今日の章は英語の要であるSVOの構造についてだった。ここでの学びを一言で表すとブログタイトルにも書いたように「シンプルにする」ということだ。
何かの英語の参考書で読んだことがあるのだが、英語で何かを表現する時には3語で通じるとのことだった。極端な主張にも思えたが、本の中身を見て、納得は出来た。
つまり、無生物主語に変えるとだいたいSVOで表現出来る。日本語的に英訳しようとすると、修飾語がたくさんになってしまい、文章が長くなってしまう。そのため、もって回った言い方になってしまう。いかにも日本的だと思った。きっとネイティブの英語話者はもっとストレートに表現するのだろう。
今学習している大学のテキストの英文もシンプルな表現になっている。
英語だけじゃなく、自分の意見や生活も無駄を削ぎ落としていきたい。
今日の学び(上記以外)
・日本語は助詞があるので、語順を変えても文章の意味は変わらない(寄せ集め的発想)。一方、英語はSVOの「型」は不変であり、語順を変えると意味が変わってしまう。
・英語は手を使って周囲に働きかけることにより、世界を制御するというヒトの生存様式を如実に表した言語であり、それがSVOの構造にそのまま重なる。
私は不器用
勉強をしながらソーシャルメディアをやっている人で、ちゃんと勉強と両立させることが出来ている人は凄いな。私は同時に2つのことを出来ないからうらやましく思う。しかも、勉強に時間がかかるし。
実は昨日、夕食後にしんどくなり、ベッドで横になり休んでいた。しばらくすると治まってきて、スマホでインターネット配信している大学の授業を観ていた。私はすぐに体調を崩すので、自分のペースで学べる環境はありがたい。
そういうわけで、昨日中断してしまった英語のテキストの学習を先程終えた。
私は不器用で、少しずつしか進むことが出来ないけど、周りのことは気にせず、自分のペースで学んでいこう。
今日の学び
自動詞:体全体や足の動きを述べる時に多く使われる(walk,run など)
→理由:それ単体で成り立つから
他動詞:手の動作や知覚を表現する際多く使われる(hold,hand,kiss など)
→理由:対象がいないと成り立たないから
テキストが届いた
今日、大学の英語のテキストが届いたので、早速一章分を学習した。
各章は約15ページ程度で構成されており、それが15章ある。放送授業は4月からなのでまだ聞くことが出来ないが、テキストに付属されているCDの音源をウォークマンに取り込んで聞いていた。
初級英語レベルなので難しくはないのだけれど、改めて英語の基礎を最初から学んでいくと、新鮮に感じることもあった。
他のページを見ると、英訳するexerciseもあり、繰り返し練習したら力がつくだろうなと思った。
毎日一章ずつ学習すれば、試験までに何周ぐらいテキストを読み込めるかな?こんな感じなら、来期は2科目ぐらい履修出来るかもしれない。
テキストだけでも理解出来るが、放送授業があると更に理解が進むのかもしれない。
ブログとTwitterについての雑感
人のブログを巡回していると、実に様々な内容・文体で書かれていることがわかる。それぞれの文章にその人らしさが出ていて、十人十色とはまさにこのことだと感じる。
中にはコメント欄で非難されている記事もあるが、概ね炎上というものは見られない。ある程度は会話が成り立っている印象だ。文章が長くなってもブログだから問題がないし、じっくり読んで返信出来るからなのだろうか(というか、どこでも炎上は起こりうるから、単にその場所がブログからユーザーの多いTwitterに移っただけか…)。
字数制限があると真意が伝わらないことが多々あるということは、先日の件で痛いほどわかった。
私はTwitterを自分の思考のメモ替わりにしようと思っていたが、そんなことはオフラインで日記などに書いておけば良いわけであって、しかもあとで読み返すこともなかった。この前過去のツイートを遡って読んだが、自分が書いた内容はほとんど忘れていた。
Twitterは思い付いたらすぐに投稿出来る気軽さがあるが、その気軽さゆえに読み手に誤解される原因にもなりうるのではないか。
あと私に関して言うと、Twitterを続けていると長い文章が書けなくなる。
また、何か事件や事故などが起こった際、まるで評論家の如く語りたくなってしまう精神状態に陥るのだ。これは恐ろしい。本物の専門家や評論家ならまだしも、たかが一市民が何を偉そうにわかった風に語ることが出来るのかと。自分で自分の文章を読み返していて不快になった。個人的な感想など身の丈に合った文章を書いたほうが気が楽だ。
情報リテラシーという言葉があるように、情報が溢れている社会で、その中から情報を取捨選択することは、今や現代人の必須の能力となっている。だから、入ってきた情報に対して批判的になることは重要ではあると思うし、それを否定はしない。
ただ、私個人としてはそういった批評めいたことをわざわざインターネット上に投稿することはしないかなと考えている。自分の心の中で批判し理解しておけば良いと思う。
Twitterを見なくなり、入ってくる情報は少なくなった。しかしその代わり、受け身ではなく自分から情報を得ようとするようになった。またブログを始めたことによって、投稿する内容を吟味するようになった。思考が整理されていく感じがする。
私には自分の文章をたくさんの人に読まれたいという願望があまりない。世界に発信してはいるが、少ない人数でも誰かが気に留めて読んでくれたら嬉しいと思うだけだ。